オーストラリア大陸には、氷河期時代に東南アジアから移住してきたとされる先住民アボリジニによって、独自の文化や生活を営んでいました。18世紀ころにヨーロッパ人の移住が始まり、植民地としての歴史を歩むことになります。そして連邦政府が成立し、「国家」が誕生。以来、移民を受け入れながら多民族・多文化国家を形成し、「国家」としての発展を続けています。
しかしながら、オーストラリアの歴史についてはあまり知られていないのではないでしょうか。
この記事を読むことで、オーストラリアの成り立ちが分かりオーストラリアの理解が深まるでしょう。
目次
建国以前
オーストラリアの先住民アボリジニは、約6万年前、第4氷河期の中頃に東南アジアからボートでやってきたアボリジナル オーストラリアン呼ばれる人々が、ノーザン・テリトリーに行き着いたのが最初と言われています。
アボリジニは、全土で狩猟、採取による生活を行っていました。そして約3万年前頃までに、アボリジナル オーストラリアンの人々は、タスマニアを含むオーストラリア全土を支配していきました。
さまざまな知恵や生活習慣を生み出し、自然との共存を図っていきました。
アート、音楽など、彼らが確立した伝統はそれから長い間も受け継がれ、今でもアボリジナル カルチャーとして親しまれています。
ヨーロッパ人との出会い
最初にオーストラリア大陸に接触したヨーロッパ人は1606年に大陸を訪れたオランダの東インド会社のウィリアム・ヤンスゾーンであると言われています。ケープヨーク半島の西側を視認して上陸し、周辺の海岸を海図に記しました。
あとになって、スペイン人のトレスがオーストラリアとパプア・ニューギニアの間の海峡、現トレス海峡を航海。オランダ人アベル・タスマン は1642年、西海岸を回りタスマニア島を発見し、さらに東に進んでニュージーランドを発見しました。
この後1770年までヨーロッパ人による開拓が続き、イギリスのキャプテン、クック中尉がオーストラリアの東海岸から現在のシドニーに当たるボタニー湾エリアの植民地化を行いました。
なんと、1770年に上陸したジェームズ・クックよりも150年も前に日本の山田長政が先にオーストラリア大陸を発見していたという説もあります。決定的な根拠が見つかるといいですね。
ヨーロッパ人の入植
1780年代のイギリスは、産業革命による失業者などが都会で犯罪を犯すようになり犯罪者の数が激増しました。微罪に問われた者でも収監する法制度もあったためイギリスの監獄は満員状態となりました。さらに1776年のアメリカ独立によって巨大な流刑地を失うことになります。流刑地の確保は、イギリス政府にとって重要課題となっていました。
その結果ニュー・サウス・ウェールズは、流刑地に選ばれました。政府は、退役海軍将校アーサー・フィリップ を初代総督に任命し、植民地建設に当たらせました。
ニュー・サウス・ウェールズ州の初代総督になったアーサー・フィリップ率いる11隻の第一船団が、シドニーのボタニー湾に到着。さらに数キロ北上したポート・ジャクソンに植民地を建設し、その後、大都市シドニーに発展しました。ボタニー湾に上陸した1月26日は、現在もオーストラリア・デーとして祝日となっています。
ゴールドラッシュ
1851年、エドワード・ハーグレイヴス がシドニーの西北西約260km地点のルイス・ポンズ・クリークで金鉱を発見しました。これを聞きつけた中国人等が押し寄せてきました。これまでの植民地としてのオーストラリアを変える大きな出来事、いわゆるゴールドラッシュが始まります。
貴金属を追い求めて新たに移住してきた人々によりビクトリア州の人口は1851年から1860年の間で約7倍に増え、同州は世界における生産高の3分の1以上を算出するまでになっていました。
しかし、ビクトリア州で金鉱労働者に課された制限に対して徐々に人々の不満が募り始め、1854年には大きな反乱が勃発し、鉱夫たちと警察による大きな争いに発展してしまいます。
結局、鉱山で働く人々は争いには負けたものの、これをきっかけに労働条件の改善が図られ、オーストラリアが近代国家として歩みを進めるための大きな転換点となったのです。
建国以後
国家の誕生
1891年、シドニーで連邦政府結成のための会議が初めて開かれた。現在の州の核となるニューサウスウエールズ、ビクトリア、クイーンズランド、サウス オーストラリア、ウエスタン オーストラリア、タスマニアからなる6つの植民地が集まって、さまざまな問題解決を図り、議論を重ねていきました。すべてが独自に軍隊や関税制度、さらには鉄道などを保有していましたが10年の歳月をかけて、国家の機軸となる憲法草案をまとめ、それをイギリス政府が承認。1901年に「オーストラリア連邦」が誕生しました。
首都の建設はシドニーと当時臨時首都であったメルボルンの間とされ、ニュー・サウス・ウェールズ州内に首都機能を建築する目的で、1927年に計画都市として首都キャンベラが建設されました。
第一次世界大戦への参加
連邦国家が成立して間もなくの1914年、イギリスがドイツに宣戦布告をし、第一次世界大戦が勃発。イギリスへの強い愛国心から追従することになりました。
戦時中、イギリスと同盟国関係にあった日本の戦艦いぶきも、インド洋を横断し、オーストラリア軍隊の護衛にあたりました。
ニュージーランド軍とともに結成されたアンザック軍団には、オーストラリアから約40万人が出征し(当時の総人口500万人弱)、約6万人が死者となりました。大きな犠牲を払ったオーストラリアは、この後、国際連盟への加入が認められ、国際社会での地位を確立しました。
第二次世界大戦への参加
第一次世界大戦後の混沌とした社会情勢が落ち着きを見せ始めたころ、今度は第二次世界大戦が始まりました。オーストラリアは連合軍の勝利に貢献しましたが、日本軍から本土を襲撃されました。
ノーザン・テリトリーのダーウィン、西オーストラリアのブルームは空襲を受け、シドニーやニュー・キャッスルは外洋から砲撃を浴びました。
シドニー郊外のカウラでは、日本兵捕虜が命がけの脱出を行い、大半の兵士が死に至りました。戦後、生存者と市民の力で、日本人戦没者墓地や世界平和の鐘がカウラに作られました。海外では初めてのことです。現在でもボランティアの力で維持されています。
戦後の復興と多民族国家
第二次世界大戦後、オーストラリアは景気が回復しました。第一次産業の小麦や羊毛を扱う企業が好景気を迎え、鉄鉱石などの資源を使った製造業も景気が向上しました。
1950年代は、国家プロジェクト(資源開発、水力電力事業)が始まりました。
社会上の制度も充実していきました。通信、テレビ、社会保障は拡大しました。
スポーツ分野でも注目され始めます。世界的に知名度を上げたのが1956年、南半球で初めてのオリンピックがメルボルンで開催されたことでした。
1960年代に入ると、アメリカやアジアとの関わりが広くなり、イギリスの影響は弱まってきました。戦後、移民政策が推進され、世界からの移民がやってきました。
政府は国民が平等であることを公約し、今では、多民族で構成する唯一の文化国家となっています。
それから、オーストラリアは、輸出市場の拡大を図るため、アジアとの取引を盛んに進めます。1957年に結ばれた、日本との商取引協定は、二国間の経済的な基盤を構築することになりました。日本は、オーストラリアにとっての最大の貿易相手国の一つとして発展しています。
1988年、イギリス人居留地の200周年を祝してキャンベラに新しい国会議事堂を開設しました。 そして2000年にはシドニーでオリンピックが開催され、世界的にも大きな注目を浴びる国となりました。
まとめ
建国以前
- ヨーロッパ人との出会い
最初にオーストラリア大陸に接触したのはオランダのウィリアム・ヤンスゾーン氏。その後発見が相次ぐ。 - ヨーロッパ人の入植
ニュー・サウス・ウェールズは、流刑地に選ばれ、海軍将校アーサー・フィリップ が初代総督が任命。 - ゴールドラッシュ(1851年)
1851年、エドワード・ハーグレイヴス がシドニーの西北西約260km地点のルイス・ポンズ・クリークで金鉱を発見。
建国以後
- 国家の誕生
1891年、シドニーでの連邦政府結成のための会議から約10年をかけて1901年に「オーストラリア連邦」が誕生。 - 第一次世界大戦への参加
1914年、イギリスがドイツに宣戦布告をし、第一次世界大戦が勃発。参戦。 - 第二次世界大戦への参加
オーストラリアは連合軍の勝利に貢献。 - 戦後の復興と多民族国 戦後、景気が向上。国家プロジェクトが始まる。2000年シドニーオリンピック開催。
オーストラリアの歴史を知ることで、オーストラリアへの感心が高まってきます。英語で書かれた歴史書を手に取って、生の歴史に触れるのもいいかもしれません。